
前回、橋本グローバルスワインさんの農場でお伝えした「命のバトン」。 真っ直ぐな瞳の黒豚たちから受け取ったそのバトンが、最初に向かう場所があります。
それは、一般的にはあまり語られることのない場所であり、レザー業界でも伏せられることの多いプロセス――「屠畜場(とちくじょう)」です。
ここからは、あえて写真は載せません。 私の記憶にある、現場の空気感と言葉だけをお届けします。
■ 10年見てきたはずの景色が、違って見えた日
私は前職のJA全農ミートフーズ時代から、屠畜現場に立ち会ってきました。食肉業界の人間にとって、そこは日常の風景であり、私たちの食を支えるプロフェッショナルな現場です。
しかし、自分のブランド『enrio』を背負い、一人の職人としてその場所に立ったあの日。 目に映る景色は、今までとは全く違ったものでした。
響き渡る機械の音。 作業に当たる方々の、一切の無駄がない無言のプロ意識。 そして、そこに漂う「命の気配」。
そこは単なる効率を求める工場ではなく、生きた命が、私たちの生活を支える「お肉」と「皮」へと、尊く切り替わる――私には、一種の「聖域」のように感じられました。
■ 「鮮度が良い」という理屈を超えた、職人の責任
「鮮度が良ければ、革の質は上がる」 それは、化学的にも証明されている紛れもない事実です。
でも、私が今回この場所について書きたかった理由は、そんな理屈ではありません。 目の前で、橋本さんが大切に育てた豚たちが姿を変えていく。その「命の転換点」を目の当たりにした時、私の胸を突き上げたのは、言葉にならないほどの強い責任感でした。
「この命を、絶対に無駄にしてはいけない。」 「最高の状態のまま、最後の一針まで責任を持って形にする。それが、この場所を通り抜けた素材を預かる者の、最低限の礼儀だ。」
そう、心から誓ったのです。
■ 「最短距離」は、命への敬意そのもの
enrioが、農場場から屠場、なめし工場、そして工房までを「最短距離」で結ぶことに執着する理由。 それは、鮮度を保つという機能的な目的だけではありません。
命が失われてから、素材へと生まれ変わるまでの時間を、極限まで短くする。 人の都合で命を止めるのではなく、そのエネルギーを熱いままに、次の形へと繋いでいく。
それこそが、失われた命に対する、私なりの最大限の「敬意」の形だと思っています。

■ バトンは次なる場所へ
屠畜場で、静かに、けれど力強く受け取った「皮」のバトン。 この生(なま)の皮は、まだこの時点では放っておけば傷んでしまう、儚い素材です。
次回は、この「皮」に職人の魔法をかけ、永遠の命を吹き込む場所。 熱気あふれる「塩蔵会社」と「なめし工場」の現場についてお話しします。


